FF16をクリアした感想
ファイナルファンタジー16をクリアしたので、感想を書いていく。
私は一応FFシリーズはオンライン以外のナンバリングタイトルは全てプレイしている。
プレイはしているものの、最後までやってないものもいくつかあり、シリーズとして一番どハマりしてたのは7〜10あたりの世代。
一番好きなFFは15。
そんな感じの人間。
世間的評価としては酷評だった15を経て、16でFFシリーズの再起を期待したFFファンが多いのではないだろうか。
しかし、私は15が一番好きなFFであり、15が今までやってきたゲームの中でダントツで好きとまで言える人間だ。
正直、15を超えるものは出てこないだろうという気持ちが強く、あまり期待値は高くなかった。
ただ、これでも一応FFファンとして16もやらないわけにはいかないだろうと思い、FF16のためにPS5を購入した。
実際プレイしてみて、15の反省が活かされているなと感じる部分がかなり多かった。
15で酷評されていた部分の多くがなくなっていた。
それ即ち、15の大ファンである私にとっては、15で良かった部分が悉く潰されている、そう感じたゲームであった。
FFシリーズは作品ごとに繋がりはほぼなく、ストーリーはもちろん、ゲーム性も大きく変わるのが特徴的なシリーズだ。
なので、15と同じようなゲームになるだろうとは思っていなかったし、そうして欲しいという気持ちも別になかった。
とはいえ、当てつけのような、みんなが嫌いな15とは違いますよ?という姿勢を感じてしまって嫌な気持ちになったのが正直なところだ。
ただこれは私の被害妄想であり、そんな意図はない、たまたまそうなっただけ、ということもあるだろう。
だから15ファンとしての気持ちは一旦置いておく。
16に関しては、事前にあまり情報を入れておらず、こうなるだろうな、こうしてほしい、こうあるべきだ、という自分の中の16像は特になかった。
ただ、唯一ある自分の中のFF観は、最先端であること、それだけだった。
最悪クソつまんなくても良い、でも、なにか一つでも突出している要素があってこれが新時代のゲームなんだと、そう思わせてほしいというのが私がFFに期待するものだった。
その点、満足がいくものではなかったというのが正直な感想だ。
確かにグラフィックは綺麗になっているのかもしれないが、薄暗いなんの変哲もない草原や森をひたすら歩かされるばかりで、新作が出るたびに感じていたこれが最先端!最高峰のグラフィックだ!という感動は得られなかった。
グラフィックに関しては自分が4Kモニターを持ってないせいもあるかもしれない。
ただ、もちろんグラフィックのクオリティが低いわけではないし、15よりも細かいところがくっきりと描写されていることはわかる。
であるが故に、気になるのがリアリティラインを無視したゲーム的な都合だ。
ファミコンやスーファミのゲームなら、他人の家に勝手に入って宝箱から物を取っていくことなんてなんにも気にならなかった。
ただ、PS5レベルになると流石に気になるというもの。
さすがに他人の家から物を盗む描写はないのだが、例えばお使いクエストをやった後の報酬でそこの箱の中身をあげると言われた後、クライヴが箱を蹴っ飛ばして開けるという描写があった。
もちろんそのシーンに深い意味はないだろう。
ただ箱を開けるモーションが蹴っ飛ばすしか用意されてなかったというだけだ。
ただ、PS5クオリティのリアル系のグラフィックでそれをやられると、没入感が大きく削がれてしまう。
たったそれだけで?気にしすぎじゃない?と思う人もいるだろうが、そういうことの積み重ねでどんどん心は離れていった。
さすがにこのスタッフはファミコンやスーファミのゲームのノリでPS5のゲームを作ってしまってるのか!?と思ったのだが、後でインタビュー記事を読んだところ、驚くべきことにそのあたりのリアリティには気を使っていると話していた。
気を使っていてこれとは、驚愕である。
ゲーム性に関しては、簡単にいうと一本道のストーリー重視ゲーだ。
私は15が一番好きだが、元々個人的にはオープンワールドゲーは苦手なジャンルであったし、一本道だからダメという気持ちはない。
ストーリー重視のJRPGなら一本道ゲーで表現するのが適しているだろう。
ただ、それにしても、いくらなんでもだ。
オープンワールドではないものの、そこそこ広いフィールドも用意されてるが、落ちてるアイテムはゴミみたいな物、なんの探索要素や謎解き要素もなく、本当にただの通り道でしかない。
一本道でも7Rのミッドガルのような作り込まれた魅力的な景色があれば歩いてるだけでも楽しいのだが、16はあまりにも殺風景である。
ついでにBGMも全く印象に残らないため世界を旅するのが楽しくない。
徒歩でほぼ世界一周旅行ができるような規模の星なのも驚きだ。(一応チョコボも使えるがサブクエをやることで使えるようになるのでメインストーリー上では基本徒歩である)
戦闘は完全なアクションになっていて、簡単に言えばデビルメイクライである。
調べてみたらどうやらデビルメイクライを作っていたスタッフがが関わっているらしい。
私は一番好きなアクションゲームがデビルメイクライなので、最初はデビルメイクライ風アクションを好意的に見ていた。
デビルメイクライを知っていたが故に、これからどんどん使える技が増えていって、どんどんいろんな武器が手に入って多彩なアクションができるんだろうなと期待してしまった。
しかし、基本的アクションは超序盤に取得したものから何も増えず、武器はなんと実質1種類だった。
召喚獣が増えると必殺技のようなものが増えるのだが、ゲージが溜まってからじゃないと使えないし、なんとも使いづらい癖の強い技が多く、発動するとしばらく見てるだけの大技も使っていて面白くない。
しかも召喚獣が全て揃うのはかなり終盤になってから。
さらに育成要素もほぼない。
なんだこれは。
デビルメイクライ風アクションをFFに取り入れるのはいい。
いいが、やるならデビルメイクライを遥かに超えるようなものにして欲しかった。
十数年前のデビルメイクライよりも劣化しているアクションをFFの最新作で!?
デビルメイクライのスタッフが手癖で作っただけのようにしか見えない。
最先端どころか、あまりにも古いゲーム体験しかできないのだ。
ただ、ゲーム性の無さはストーリーに集中してもらうため、ライトユーザーでも最後までプレイできるようにするためという意図があるようだ。
ロードも短いしあまりストレスなく最後までプレイできたのは事実だ。
だからここに関しては一旦目を瞑る。
重要なのはストーリーである。ストーリーさえ良ければ全てをひっくり返せる。
その肝心のストーリーが評価できるところが皆無だった。
加点方式で見ると0点である。
最初から最後まで不可解な言動ばかり、昔こういうことがあった、この人とこの人はこういう関係だ、という設定の羅列をするばかりで具体的なエピソードが全然描かれない。
ツッコミだしたらキリがなさすぎるので、差別問題、人が人として生きられる世界というものを中心に語っていく。
FF16の世界では、魔法があり、魔法を使うためには基本的にはクリスタルが必要なのだが、クリスタルなしで魔法を使えるベアラーという存在がいる。
この魔法を使えるベアラーがこの世界では差別を受け、奴隷扱いされている。
普通に考えたら魔法が使える時点で普通の人間より上位の存在になりそうであるし、力がない人間が力のある人を奴隷扱いとはよくわからない。
昔はベアラーは人間よりも上位の存在だったが調子乗りすぎて驚異に感じたから差別するようにしたとかそんな感じの設定が一応あるにはある。
ベアラーは奴隷だとしっかり教え込まれているので、そこに疑問を持つ人なんてほとんどいないのだろう。
そういう設定だから、というのはわかるのだが、昨今差別というものが大きく問題視され、差別はよくないという話題は身近なものになってきた。
差別について考えることが増えたからこそ、そんな差別ありえるか?という疑問が強くなる。
今我々の世界で起こっているような差別を直接的に生々しく描くのはあまりにもショッキングすぎるため、架空のありえなさそうな差別をでっち上げてお茶を濁したというのは意図としては理解できる。
ただ、もう少し実際の差別の延長線上にあるようなものにできなかったのだろうか。
差別というセンシティブな問題をなんか暗くて深いっぽい話にしたいがために気軽に利用している、そのためにありもしない無理矢理な架空の差別をわざわざ生み出しているように見えてしまいかなり不快になってしまった。
あり得ない差別を生み出してあり得ない方法で解決するマッチポンプのような構造にみえてしまう。
主人公のクライヴもベアラーであり、かつては奴隷兵士として酷使されていた。(なお、その時代の話はほぼ描かれない)
そのクライヴが差別のない世界を望むのは自然である。
クライヴは人が人として生きられる世界を目指して行動を起こしていくことになる。
人が人として生きられる世界というのは、中盤まではおそらくベアラーが差別を受けない世界という意味であったように思える。
しかしこの言葉の意味は途中から変化していく。
人間は元々アルテマという神のような上位存在が作った物であり、精神体になってしまったアルテマが再び肉体を取り戻すための器であったという真実が終盤に語られる。
肉体としてふさわしい人間が出てくるまで眠りについたアルテマだが、目覚めた時には人間が自我を獲得して好き勝手やっていた。
アルテマは全ての人間から自我を消そうとするのだが、クライヴたちはそれに抗っていく。
そんな流れの中で、人が人としてというのはアルテマに支配されない、自我を持った存在であることという意味にすり替えられ、目的はアルテマを倒すことに集約される。
アルテマを999999パンチで倒せばアルテマの支配からは逃れられ、アルテマを倒すことで新たなベアラーが生まれてこなくなるっぽいので、自我問題と差別問題が同時に解決され一石二鳥、結果オーライである。
うむ…
ベアラー差別問題は人間の心の問題だったはずだ。
魔法は元々アルテマから与えられてる物なのでそもそもアルテマなんてやつがいなければ、というのはそうなのだが、アルテマがいなければ人間も存在していないのだ。
あくまで人間の問題だったのが神を倒せば全部解決は乱暴すぎではないだろうか。
差別が溢れたこの地球で生きてる人間がそんな話を見せられて希望をもてるだろうか。
神が悪い、神さえ倒せば。人間は素晴らしい。
これが大人向けダークファンタジーなのか。
子供騙しにとほどがあるのでは?
アルテマという上位存在を暴力でおさえつけ、ここは俺たちの人間の星だと主張する。
これってベアラー差別問題となんら変わりない構造なのでは?
もちろんおとなしくアルテマに滅ぼされれば素晴らしい物語かといえば違う。
そうするしかないという事情はわかるが、差別問題を扱った作品としてはあまりにもグロテスクな結末のように思える。
差別撤廃を主張する人間が無意識に別の差別を行なってしまうという現実でもよくみるやつだ。
違いを受け入れていこうと叫ばれる世の中で、違いをなくしてしまえ、問題は暴力で解決という物語が2023年に出てきたことが恐ろしい。
なーんちゃって!
これはゲーム!ファンタジー!
子供の遊び!!!
ファイナルファンタジーだよーーー!!!
ぉゎ。