FF16をクリアした感想
ファイナルファンタジー16をクリアしたので、感想を書いていく。
私は一応FFシリーズはオンライン以外のナンバリングタイトルは全てプレイしている。
プレイはしているものの、最後までやってないものもいくつかあり、シリーズとして一番どハマりしてたのは7〜10あたりの世代。
一番好きなFFは15。
そんな感じの人間。
世間的評価としては酷評だった15を経て、16でFFシリーズの再起を期待したFFファンが多いのではないだろうか。
しかし、私は15が一番好きなFFであり、15が今までやってきたゲームの中でダントツで好きとまで言える人間だ。
正直、15を超えるものは出てこないだろうという気持ちが強く、あまり期待値は高くなかった。
ただ、これでも一応FFファンとして16もやらないわけにはいかないだろうと思い、FF16のためにPS5を購入した。
実際プレイしてみて、15の反省が活かされているなと感じる部分がかなり多かった。
15で酷評されていた部分の多くがなくなっていた。
それ即ち、15の大ファンである私にとっては、15で良かった部分が悉く潰されている、そう感じたゲームであった。
FFシリーズは作品ごとに繋がりはほぼなく、ストーリーはもちろん、ゲーム性も大きく変わるのが特徴的なシリーズだ。
なので、15と同じようなゲームになるだろうとは思っていなかったし、そうして欲しいという気持ちも別になかった。
とはいえ、当てつけのような、みんなが嫌いな15とは違いますよ?という姿勢を感じてしまって嫌な気持ちになったのが正直なところだ。
ただこれは私の被害妄想であり、そんな意図はない、たまたまそうなっただけ、ということもあるだろう。
だから15ファンとしての気持ちは一旦置いておく。
16に関しては、事前にあまり情報を入れておらず、こうなるだろうな、こうしてほしい、こうあるべきだ、という自分の中の16像は特になかった。
ただ、唯一ある自分の中のFF観は、最先端であること、それだけだった。
最悪クソつまんなくても良い、でも、なにか一つでも突出している要素があってこれが新時代のゲームなんだと、そう思わせてほしいというのが私がFFに期待するものだった。
その点、満足がいくものではなかったというのが正直な感想だ。
確かにグラフィックは綺麗になっているのかもしれないが、薄暗いなんの変哲もない草原や森をひたすら歩かされるばかりで、新作が出るたびに感じていたこれが最先端!最高峰のグラフィックだ!という感動は得られなかった。
グラフィックに関しては自分が4Kモニターを持ってないせいもあるかもしれない。
ただ、もちろんグラフィックのクオリティが低いわけではないし、15よりも細かいところがくっきりと描写されていることはわかる。
であるが故に、気になるのがリアリティラインを無視したゲーム的な都合だ。
ファミコンやスーファミのゲームなら、他人の家に勝手に入って宝箱から物を取っていくことなんてなんにも気にならなかった。
ただ、PS5レベルになると流石に気になるというもの。
さすがに他人の家から物を盗む描写はないのだが、例えばお使いクエストをやった後の報酬でそこの箱の中身をあげると言われた後、クライヴが箱を蹴っ飛ばして開けるという描写があった。
もちろんそのシーンに深い意味はないだろう。
ただ箱を開けるモーションが蹴っ飛ばすしか用意されてなかったというだけだ。
ただ、PS5クオリティのリアル系のグラフィックでそれをやられると、没入感が大きく削がれてしまう。
たったそれだけで?気にしすぎじゃない?と思う人もいるだろうが、そういうことの積み重ねでどんどん心は離れていった。
さすがにこのスタッフはファミコンやスーファミのゲームのノリでPS5のゲームを作ってしまってるのか!?と思ったのだが、後でインタビュー記事を読んだところ、驚くべきことにそのあたりのリアリティには気を使っていると話していた。
気を使っていてこれとは、驚愕である。
ゲーム性に関しては、簡単にいうと一本道のストーリー重視ゲーだ。
私は15が一番好きだが、元々個人的にはオープンワールドゲーは苦手なジャンルであったし、一本道だからダメという気持ちはない。
ストーリー重視のJRPGなら一本道ゲーで表現するのが適しているだろう。
ただ、それにしても、いくらなんでもだ。
オープンワールドではないものの、そこそこ広いフィールドも用意されてるが、落ちてるアイテムはゴミみたいな物、なんの探索要素や謎解き要素もなく、本当にただの通り道でしかない。
一本道でも7Rのミッドガルのような作り込まれた魅力的な景色があれば歩いてるだけでも楽しいのだが、16はあまりにも殺風景である。
ついでにBGMも全く印象に残らないため世界を旅するのが楽しくない。
徒歩でほぼ世界一周旅行ができるような規模の星なのも驚きだ。(一応チョコボも使えるがサブクエをやることで使えるようになるのでメインストーリー上では基本徒歩である)
戦闘は完全なアクションになっていて、簡単に言えばデビルメイクライである。
調べてみたらどうやらデビルメイクライを作っていたスタッフがが関わっているらしい。
私は一番好きなアクションゲームがデビルメイクライなので、最初はデビルメイクライ風アクションを好意的に見ていた。
デビルメイクライを知っていたが故に、これからどんどん使える技が増えていって、どんどんいろんな武器が手に入って多彩なアクションができるんだろうなと期待してしまった。
しかし、基本的アクションは超序盤に取得したものから何も増えず、武器はなんと実質1種類だった。
召喚獣が増えると必殺技のようなものが増えるのだが、ゲージが溜まってからじゃないと使えないし、なんとも使いづらい癖の強い技が多く、発動するとしばらく見てるだけの大技も使っていて面白くない。
しかも召喚獣が全て揃うのはかなり終盤になってから。
さらに育成要素もほぼない。
なんだこれは。
デビルメイクライ風アクションをFFに取り入れるのはいい。
いいが、やるならデビルメイクライを遥かに超えるようなものにして欲しかった。
十数年前のデビルメイクライよりも劣化しているアクションをFFの最新作で!?
デビルメイクライのスタッフが手癖で作っただけのようにしか見えない。
最先端どころか、あまりにも古いゲーム体験しかできないのだ。
ただ、ゲーム性の無さはストーリーに集中してもらうため、ライトユーザーでも最後までプレイできるようにするためという意図があるようだ。
ロードも短いしあまりストレスなく最後までプレイできたのは事実だ。
だからここに関しては一旦目を瞑る。
重要なのはストーリーである。ストーリーさえ良ければ全てをひっくり返せる。
その肝心のストーリーが評価できるところが皆無だった。
加点方式で見ると0点である。
最初から最後まで不可解な言動ばかり、昔こういうことがあった、この人とこの人はこういう関係だ、という設定の羅列をするばかりで具体的なエピソードが全然描かれない。
ツッコミだしたらキリがなさすぎるので、差別問題、人が人として生きられる世界というものを中心に語っていく。
FF16の世界では、魔法があり、魔法を使うためには基本的にはクリスタルが必要なのだが、クリスタルなしで魔法を使えるベアラーという存在がいる。
この魔法を使えるベアラーがこの世界では差別を受け、奴隷扱いされている。
普通に考えたら魔法が使える時点で普通の人間より上位の存在になりそうであるし、力がない人間が力のある人を奴隷扱いとはよくわからない。
昔はベアラーは人間よりも上位の存在だったが調子乗りすぎて驚異に感じたから差別するようにしたとかそんな感じの設定が一応あるにはある。
ベアラーは奴隷だとしっかり教え込まれているので、そこに疑問を持つ人なんてほとんどいないのだろう。
そういう設定だから、というのはわかるのだが、昨今差別というものが大きく問題視され、差別はよくないという話題は身近なものになってきた。
差別について考えることが増えたからこそ、そんな差別ありえるか?という疑問が強くなる。
今我々の世界で起こっているような差別を直接的に生々しく描くのはあまりにもショッキングすぎるため、架空のありえなさそうな差別をでっち上げてお茶を濁したというのは意図としては理解できる。
ただ、もう少し実際の差別の延長線上にあるようなものにできなかったのだろうか。
差別というセンシティブな問題をなんか暗くて深いっぽい話にしたいがために気軽に利用している、そのためにありもしない無理矢理な架空の差別をわざわざ生み出しているように見えてしまいかなり不快になってしまった。
あり得ない差別を生み出してあり得ない方法で解決するマッチポンプのような構造にみえてしまう。
主人公のクライヴもベアラーであり、かつては奴隷兵士として酷使されていた。(なお、その時代の話はほぼ描かれない)
そのクライヴが差別のない世界を望むのは自然である。
クライヴは人が人として生きられる世界を目指して行動を起こしていくことになる。
人が人として生きられる世界というのは、中盤まではおそらくベアラーが差別を受けない世界という意味であったように思える。
しかしこの言葉の意味は途中から変化していく。
人間は元々アルテマという神のような上位存在が作った物であり、精神体になってしまったアルテマが再び肉体を取り戻すための器であったという真実が終盤に語られる。
肉体としてふさわしい人間が出てくるまで眠りについたアルテマだが、目覚めた時には人間が自我を獲得して好き勝手やっていた。
アルテマは全ての人間から自我を消そうとするのだが、クライヴたちはそれに抗っていく。
そんな流れの中で、人が人としてというのはアルテマに支配されない、自我を持った存在であることという意味にすり替えられ、目的はアルテマを倒すことに集約される。
アルテマを999999パンチで倒せばアルテマの支配からは逃れられ、アルテマを倒すことで新たなベアラーが生まれてこなくなるっぽいので、自我問題と差別問題が同時に解決され一石二鳥、結果オーライである。
うむ…
ベアラー差別問題は人間の心の問題だったはずだ。
魔法は元々アルテマから与えられてる物なのでそもそもアルテマなんてやつがいなければ、というのはそうなのだが、アルテマがいなければ人間も存在していないのだ。
あくまで人間の問題だったのが神を倒せば全部解決は乱暴すぎではないだろうか。
差別が溢れたこの地球で生きてる人間がそんな話を見せられて希望をもてるだろうか。
神が悪い、神さえ倒せば。人間は素晴らしい。
これが大人向けダークファンタジーなのか。
子供騙しにとほどがあるのでは?
アルテマという上位存在を暴力でおさえつけ、ここは俺たちの人間の星だと主張する。
これってベアラー差別問題となんら変わりない構造なのでは?
もちろんおとなしくアルテマに滅ぼされれば素晴らしい物語かといえば違う。
そうするしかないという事情はわかるが、差別問題を扱った作品としてはあまりにもグロテスクな結末のように思える。
差別撤廃を主張する人間が無意識に別の差別を行なってしまうという現実でもよくみるやつだ。
違いを受け入れていこうと叫ばれる世の中で、違いをなくしてしまえ、問題は暴力で解決という物語が2023年に出てきたことが恐ろしい。
なーんちゃって!
これはゲーム!ファンタジー!
子供の遊び!!!
ファイナルファンタジーだよーーー!!!
ぉゎ。
ラブライブ!スーパースター!!第一話 感想 衝撃の1分半!!!
ラブライブ!スーパースター!!第一話、を見た。
物凄いテンポで濁流のように押し寄せる情報量、しかし全てが心地よく全身に染み渡る快感。
圧倒的な1話だった。
劇伴と映像が完全に一体化している気持ち良さはおそらく映像に合わせて音楽を作るフィルムスコアリングという手法が使われているはず。
そしてオーバーな感情表現をすることで情報が流れていかずしっかりと印象付けられている。
24分間継続し続ける快楽でガンギマってしまった。
言いたい事は色々あるが、特に冒頭の1分半について語ろうと思う。
まず少女が歌っているシーンから始まる。
この少女は主人公だろうという事は容易に想像できる。
これは無印1話を彷彿とさせるが、無印とは違い聞いている人からの視点が入る。
つまり実際に歌っているという事で、今回の主人公は歌が好きでギターが弾けて、恐らく作詞作曲もできる、そして聞いている生徒の反応からその才能が評価されていることがわかる。
このシーン、非常に作画が美しく、歌の良さも相まっていきなりガッツリ引き込まれるのである。
無印劇場版のエンジェリックエンジェルで超絶美人になるエリチを彷彿とさせる作画で、同じ人が担当していると自分は予想している。
歌が終わり、中学時代の自己紹介が始まる。
名前は澁谷かのん。誕生日、家族構成、好きな食べ物と言った基本的なプロフィールが提示される。
志望校は新設された結ヶ丘という高校の音楽科、夢は歌でみんなを笑顔にすること。
明るくハキハキと喋り希望に満ち溢れている。
そこから一瞬で場面が切り替わり、高校受験の実技試験へ。
そこには先ほどまでの希望に満ち溢れた明るさはない。
中学は外苑西中学。
歌が好きで才能もあるはずのかのんは、なぜかガチガチに緊張していて歌うことができない。
受験は失敗。
これが今回の主人公が抱えている問題であり、今後これを解決していくドラマが展開されることがわかる。
そこからまた場面が切り替わり、「バーカ」
突然のギャップ!!!さっきまでのキラキラ笑顔はどこへいったのか。
メガネをかけ髪をまとめてデコ出しの完全おうちモード。
家では口が悪く家族に反抗的。
リアルなJK感でこのギャップが逆にグッとくる。
はい、ここまでで約1分半なのである。
とてつもない情報量!!!しかし全てがすっと入ってくる。
信じられますか?
過去作と比較すると、無印は1分半ではせいぜい高坂穂乃果2年、歌ってる、廃校という情報くらいだ。
いきなり廃校がドーン!と出てくるのも相当なインパクトで衝撃を受けたが、今回の情報量はその比じゃない。
このわずか1分半で、もう澁谷かのんちゃんのトリコになっているのである。
この子を応援したいという気持ちになっている。
そう思わせたらもう勝ちみたいなもんでしょう。
もちろんこの1分半だけでなくその後もこのテンポで進んでいくわけだ。
クゥクゥちゃんが可愛いとかはもう言うまでもない。
挿入歌も素晴らしい。
1話でもう歌えた!までいってしまったわけで、これ普通のアニメだったら何話かかってんだろという感じだ。(これで完全に問題解決というわけではないだろうが)
もちろん詰め込めば詰め込むほど素晴らしいというわけではなく、絶妙なバランスで成り立っているからこそ面白い作品に仕上がっている。
1話はラブライブ!らしさを強く感じるものであったが、今までとは違う要素もちりばめられており、どう展開していくのか楽しみである。
個人的には平安名ギャラクシーすみれさんの活躍が楽しみ。
ぉゎ
平尾隆之ファンから見た映画大好きポンポさん 感想
劇場版 映画大好きポンポさんを見た。
この作品を見た方は、原作のファンであったり、話題になってたから見てみたという方が多いと思う。
自分はそれらとは違って、この作品の監督である平尾隆之さんのファンだからという理由で見に行った人間だ。
まだまだ一般的な知名度は低い監督であり、平尾監督ファンからはどう見えたかという感想が少ないので、自分なりに平尾監督ファンという視点からの感想を書いてみようと思う。
この作品は原作漫画があり、自分も映画を見る前に原作もチェックしていた。
劇場版は基本的なキャラクターやストーリーの流れは原作の1巻と同じだ。
しかし、作品を見た時に受けた印象は大きく異なるものであったと思う。
基本的なストーリーは同じとはいえ原作から膨らませている部分もあるし、オリジナルキャラもいるのだが、それ以前に開始数秒でもう平尾濃度が高すぎるのである。
一言で表すなら、この作品は平尾監督の集大成的な作品になっていると自分は感じた。
どういうことかというと、この作品には、演出や、シナリオなど、あらゆる面で過去の平尾作品でやっていたことが盛り込まれているのである。
わかりやすいところで言うと、すれ違う瞬間にスローモーションにすることで印象づける演出や、カメラ固定で高速で時間が経過する演出はゴッドイーターでやったもので、軽快なビートに乗せてセリフなしで映像が流れていくのはまなびストレートでやったものだ。
また、時系列を入れ替えてみせていく構成は空の境界5章、アランのプレゼンは署名活動で行き詰まったときに桃葉が電波ジャックをしてメインキャラのインタビュー映像を流したまなびストレート10話を彷彿とさせるし、一番大事なものを守るためにそれ以外を捨てなければいけないときもあるというのはゴッドイーターでもやったテーマだ。
このように過去に平尾監督が手がけてきた作品の要素を盛り込んであるわけだが、これは別にただ手癖で作っているというわけではないと自分は思っている。
平尾監督はマッドハウスの制作進行出身で、今敏監督等から演出を学び、その後ufotableで活躍されていた。
ufotableの中でも一際個性派だった平尾隆之は、社長からも期待されていたように感じたし、異常なまでにクオリティを追求するufotableと平尾監督は相性が良かったと思っていた。
しかし、平尾監督はufotableを離れることになった。
詳しい経緯は知らないが、ゴッドイーターの時に迷惑をかけてしまったからということらしい。
迷惑をかけたというのは、ゴッドイーターでスケジュールがない中あまりにもこだわりすぎてしまった結果、放送を何度も落としてしまったという事態のことだろう。
そのことを反省して自ら離れたのか、会社から切られたのかはわからないが、前向きな退社ではないことは確かだ。
その後、実質無職のような状態になったらしく、その時に初心にかえり、自分は何のためにアニメを作っているのか、自分は何がやりたいのかということを見つめ直したようだ。
そんな時にポンポさんのアニメを作らないかと言われ、漫画を読んだ時に、おそらく平尾監督はそこに自分を見つけたんだろうと思う。
これは僕なんだと。
だから、劇場版のジーン・フィニは平尾隆之にしか見えないのである。
平尾隆之と化したジーンは原作のジーンとは少し違うんだろうと思う。
ただ、それでも劇場版にも感じるジーンらしさ、映画大好きポンポさんらしさというのは、自分を決して曲げないところにあると感じた。
自分がやりたいことにどこまでも素直で、時にはそれで周りに迷惑をかけたとしても、決して曲げない信念がある。
映画大好きポンポさんをアニメ化するにあたって、自分を押し殺して原作者や原作ファンに気を使った作品にしてしまうのは、逆に映画大好きポンポさんのアニメ化としては失敗ではないか?と個人的に感じる。
平尾監督は思いっきり自分を解放してこの映画に詰め込んだ。
それによって原作からは離れてしまったのかもしれない。
だったらオリジナルでやれば良いじゃんと思う人もいるだろうし、よくわからん監督に原作を利用されたと憤慨する人もいるだろう。
それでも、こういうことを映画大好きポンポさんという原作を使ってやったことは非常に意義があると自分は感じている。
それこそがまさに映画大好きポンポさん的なのではないかと。
原作者がアニメに関わらずに監督にお任せしたのも、そのようなことを期待していたのではないかと思う。
ポンポさんから受け取った脚本をジーンが自分の作品に作り替えてポンポさんに返した、その関係性はまさに平尾監督と原作者の杉谷さんに重なって見えた。
ジーンがダルベールに自分を重ねたとき、そこに自分も重なって見えたし、平尾監督や平尾監督が手がけてきた作品のキャラたちも重なって見えた。
あの時のえもいわれぬ感情は今まで味わったことがないものだったかもしれない。
ジーンが最後に切るべきか悩むカットが、平尾監督と昔から親交がある竹内哲也さんが手がけた(と思われる)超絶カットだったというあたりも、平尾作品を長年追っかけてきた自分としては非常にグッときた。
自分は常々作品というのは人であると感じていて、作品にはどうしたって作者が滲み出るし、作品を通して勝手に作者と対話している気になっていた。
自分は別に平尾監督の友達でも何でもないし、本当は平尾監督のことなんてほとんど知らない。
でも、作品を通してなんとなくこういう人なのかなと思い描いていたのは、この作品を見てやっぱりあながちまちがっていなかったのかもなと思えた。
平尾作品によく参加している作曲家の椎名豪さんのインタビューで平尾監督の作品は主人公がみんな平尾監督に似てると言っていたのを見て少し笑ってしまった。
作品を見ている時に作者なんて気にしたくないと思う人もいるだろうが、こういう楽しみ方もあるよ、とだけ言っておきたい。
庵野監督ほどの知名度があるとシンエヴァが私小説的であると語られることはあっても、ポンポさんがそういう文脈で語られることが全くないのは少し寂しいなと思ったので今回このようなブログを書いてみた。
もちろん平尾監督のことを知らなくても、単純にクオリティが高いので楽しめるものではある。
ただ、この作品を面白いと感じたのであれば、是非他の平尾作品も見てみることを自分はおすすめする。
短時間でサクッと一本見とくなら映画作品の魔女っ子姉妹のヨヨとネネ。
テレビシリーズであれば、ゴッドイーター、まなびストレート、フタコイオルタナティブあたりがおすすめ。
自分は平尾作品はよく見ているが、映画にはあまり詳しくなく、映画のオマージュ的なシーンはわかってない部分が多いので、その辺りの視点での感を誰かお願いします。
ぉゎ。
エレパレは青春という概念の結晶【映画 ザ・エレクトリカルパレーズ レビュー】
ザ・エレクトリカルパレーズとは、お笑い芸人 ニューヨークのYouTubeチャンネルにて無料公開されている映画である。
お笑い芸人?興味ない。
ニューヨーク?知らない。
YouTubeの無料映画?しょぼそう。
そう思う人もいるだろうが、本気で面白かったので是非見ていただきたい。
この作品は、かつて吉本の養成所 NSCの17期にのみ存在していたという謎の集団の謎を追ったドキュメンタリー映画だ。
ザエレクトリカルパレーズ、通称エレパレ。
エレパレはNSC17期のエリート集団で、17期はエレパレとエレパレ以外に別れていたという。
ネタ見せではエレパレのみが爆笑をとり、同期の女性芸人からもモテモテ。
エレパレは自らの力を誇示するために、オリジナルのTシャツを作り、オリジナルの歌を作った。
これほどまでに圧倒的な存在感を放っていたエレパレは、今となっては誰がメンバーだったのかすらはっきりしていない。
エレパレにいったい何があったのか、これらの噂は本当なのか。
エレパレの謎を解明するべく、NSC17期生へのインタビューを重ね、真実に迫っていく、という内容になっている。
最初は都市伝説物のミステリような感じで、徐々に謎を解き明かす楽しさがある。
最初はエレパレメンバーではない17期生へのインタビューから始まり、徐々にエレパレの中心へ向かっていく構成が非常にドキドキする。
エレパレの眩しさに慄いていたやつ、痛い集団だと馬鹿にしていたやつ、エレパレメンバーで心底楽しんでたやつ、無理やりエレパレに入れられて本当は嫌だったやつ、エレパレメンバーではないけどエレパレと仲良かったやつ。
様々な視点からエレパレを紐解いていく。
この作品の面白いところは、全員が昔の朧げな記憶を頼りに話しているというところだ。
そして、立場の違いから私情が入ってくるし、芸人なのでおもしろおかしくしようと思って盛っている可能性もある。
そうなると、それぞれの言うことに食い違いが起きてくる。
結局どこからどこまでが真実なのかはわからないのだ。
それ故に、具体的な団体名や人物名は出てくるものの、かなり抽象的であり、余白が多い。
だからこそ、別に自分が芸人でなくとも、出演者を全く知らなくても、視聴者が入り込める余地がある。
また、この作品はエレパレみたいな人になれとも、エレパレみたいな恥ずかしいやつらにはなるなよともいっていない。
だから、エレパレみたいなことをしていた陽キャでも、そういう人を影から馬鹿にしていた陰キャでも、あらゆる人がエレパレの登場人物になれる。
最終的に、エレパレを取り巻く全てがいい思い出となり、青春という概念として結晶になる。
ミステリを見ていたはずが気づいたらいつのまにか青春ものになり、爽やかな気持ちでラストを迎えているのだ。
自分はどちらかと言えばエレパレのような存在を影から馬鹿にしているようなタイプなのだが、最終的には何故かエレパレって良いなと思わされてしまった。
エレパレだった人も、エレパレじゃなかった人も、視聴者ですらも、全てがエレパレなのだ。
ぉゎ
恐怖人形を見た
恐怖人形という映画を見た。
日向坂46の人が主演らしい。
正直全く知らない方だったが、それなりにかわいい。
ホラーはとりあえずかわいい女の子がいれば見れる。
そのために見ていると言っても過言ではない。
内容はホラーとしてはかなりテンプレ的で、閉鎖空間に集められた男女数名が、バケモンに殺されていくというシンプルなもの。
日本人形というモチーフもホラーでは定番。
ただ唯一個性的だったのは、最初はひっそりと佇んで恐怖心を煽っていた日本人形が、突然巨大化してナイフやチェーンソーを振り回して襲ってくるところだ。
ここまで大胆にやってこられるとワクワクしてくる。
もはや特撮ものである。
日本人形を使ったホラーの固定観念をあえて破壊してきたという点は高く評価したい。
ただ残念だったのは、その巨大日本人形はただの着ぐるみで、普通に人間が復讐をしていただけだったというオチだ。
そこはガチのバケモンであって欲しかったと個人的には思ってしまった。
大きなマイナスポイントである。
ただ、主演の子が可愛かったのとレズセックスシーンがあったのを加味して、100点。
ぉゎ
昨日のつまらないは、今日の面白いかもしれない 〜ランジャタイ激ハマりの巻〜
ランジャタイという漫才師がいる。
自分はにわかお笑いファンなもので、恥ずかしながらM-1グランプリ2020の敗者復活戦で初めて存在を知ったのだが、ネタを初めて見た正直な感想は『意味不明』だった。良い意味で、ではなく。
敗者復活は審査員気取りで点数をつけながら見ていて、確か最低点数をつけたと思う。
会場でもあまりウケてはいなかったし、視聴者投票も最下位だった。
その時は変な漫才師いたなーくらいの気持ちしかなく、その後の決勝の盛り上がりで敗者復活戦の記憶も薄れてしまった。
後日、YouTubeに公式で敗者復活のネタがアップされてるのに気づき、一応なんか見とくかぁと思い、いくつか面白かったネタを見直したのだが、その時何故か、もう一度ちゃんと見たら何かがわかるかもしれないと思い、ランジャタイのネタを見た。
相変わらず意味不明ではあるが、ボケの国崎が表現している情景が少し見えてきた。
これはもしかしたらちょっと面白いのかもしれないと思い、YouTubeで他のネタを見てみた。
やはり意味不明ではあるが(基本的にそういうスタイルなので)、この動画ではとんでもない大爆笑を掻っ攫っていた。
小さい劇場だしかなり濃いファンだけが集まっていたのかもしれないが、それはそれはもうドッカンドッカンウケている。
そのおかげでなるほど、ここが笑いどころなのか、というのがまた少しくっきりしてきた。
そして次に見たのが今大バズりしているマヂカルラブリーno寄席だ。
この寄席は、無観客なのを良いことに芸人が客席から野次を飛ばしているのが面白い、特にランジャタイがヤバイ!と話題になっていて、マヂカルラブリー好きだしランジャタイも気になるし960円だし、ということで見てみることにした。(ちなみにバズりにバズってよしもとの配信イベントで歴代1位の売り上げを記録したらしい)
実際見てみると、意味不明なランジャタイのネタにプロの芸人が適切な野次を入れることで、どう楽しめば良いのかがめちゃくちゃわかりやすくなっていたのだ。
特に印象に残った野次は「理解しようとすんな!」「(意味不明なことを言っても相手にしてくれるから)喜んでんだって相手は!」「こいつしか友達いねぇんだよ!」といったもの。
それらの野次によるアシストで、普段誰にも相手にされない狂人の国崎(ボケ)とそいつを突き放さずに必死に理解してあげようとしている伊藤(ツッコミ)という構図が見えてきた。
そう見ると、意味不明の一言で片付けていたネタが、面白く、たまらなく愛おしく感じるようになってきた。
完全にランジャタイの楽しみ方がわかってしまったのだ。
ついこの前までつまらないと思っていた物が、ほんの数日で最高に面白いになってしまった。
ランジャタイは何も変わってない。
自分の見方が変わっただけなのだ。
人間の感性なんてあやふやな物だ。
良くも悪くも、ほんのちょっとしたことで180度変わってしまうこともある。
絶対的なものなんてない。
ただやっぱりランジャタイのネタは、意味不明だ。
ぉゎ
別に本当は一番が欲しいわけじゃないという話
食べ物でも映画でもアニメでも漫画でも、人はやっぱり質が良いものを求めるはずだ。
めちゃくちゃ美味しい!、めちゃくちゃ面白い!これが一番好きだ!って、誰しもが自分の一番ってあると思う。
でもそれって本当は一番じゃなくて、自分が一番だって決めただけだと思うんだ。
でもそれで良くて、別に一番なんて欲しいわけじゃない。
例えば歌番組を見てる時、この人自分が一番好きなアーティストよりも歌がうまいなぁとか、ダンスうまいなぁとか思ってしまうこともある。
でも、その人のファンになるかって言ったら別にならない。
本当に質の良い物が欲しいならそっちに乗り換えれば良いし、世界は広く上には上がいてもっともっとすごい人たちがいることも知っている。
でも、自分の一番は変わらない。
そんなのよりこっちの方がすごいよ?その程度のものを好きなんて馬鹿なの?
なんて言われても、自分の一番は変わらない。
それがすごいのはわかる、でも興味はない。
そういうことにしておく。
自分一人で抱えられるキャパは少ない。
その狭いキャパの中で自分が決めた一番を大事にする。
もしかしたら、そっちに乗り換えたらもっと幸せだったのかもしれない。
でも、それはそれ。
自分が決めた一番で、今幸せならそれで良い。
物足りないなら探せば良い。
一番をひたすら探す旅をしている人もそれはそれで良いと思うけど。
自分はこれで満足。
俺の一番は俺が決める。
そんなお話。
ぉゎ